2017年10月5日(木)月齢14.9 / 眉の山と神の山

眉山。少女時代に勉強部屋の窓から毎日眺めた山だ。ロープウェイでも登れるが、小学校の時には遠足の定番コースだった。その名の通り、山頂が眉の形で細長く、パゴダが目印。

先月の半ば過ぎ、ダンス活性化事業Aプログラムで三泊四日にわたり徳島に遠征した。わたくしごとで恐縮ながら、ふるさとである。大阪は十三で生まれ、父親ともども喘息で苦しみ、空気の澄んだ町への転地療養をすすめられたのが3歳の時。母親の実家のある四国へ一家で引っ越すこととなった。保育園、幼稚園、小学校、中学校、高校までの15年間を徳島市で過ごした。人生がどんなものになるかなんて、パンになる前の、まだ柔らかな生地の状態なのだから予想もつかず、ただ朴訥に期待していたものだ。

大学に進学して以降も、結局京都にとどまり、ついに母が待ち望んでいたように郷里に戻ることはなかった。「いつ帰ってくるんえ?」と私を県庁庁舎の最上階の食堂に誘って尋ねた母。亡くなってやがて十年になるが、あの日母と見た青い空は今も健在だ。

高校の三年。窓から校庭越しの遠景をぼんやり眺めるたびに、あの向こうには何があるんだろうと、想像をかきたててくれた青い山。山中他界という、覚えたてのことばぴったりの、神山という山だった。何年もぼんやりと片思いしていた同級生の実家があると知ったのは、もう高校も卒業間近。

今回の遠征では、なんと、その神山の農村舞台の見学にお連れ頂いた。小野さくら野舞台。保存会の責任者であるご夫妻の、熱のこもったご説明の伴奏は音もなく降る秋雨。襖のカラクリなども実演してくださって、あっという間に下山の時間だ。いつかまた。必ず。

翌々日の、義太夫鶴沢友輔さんとのコラボレーションワークショップ「コンテンポ太夫」にも、連日訪問したアウトリーチ先にも、10代を徳島で生きる子たちがいて、思春期の自分とそれはどこか重なり、何故か新鮮な、と同時にこよなく懐かしい感覚を覚えた。それはほんの少し面映ゆいような切ないような、説明しがたい感覚だった。

生まれて初めての故郷での事業。最終日ごろにようやく阿波弁が口をついて出てくるようになる。「いったんは帰るけんどな、また来れたらうれしいんじょ」。

(茉歩)
写真は農村舞台の近辺の風景です。雨模様。