2016年6月5日(日)月齢0.0 / 美味なるものは突然に

インタビューを受けることが増えた。話した内容がほぼそのまま形になるケースもあれば、記事として凝縮され、エッセンスだけ取り出されるケースもある。大抵は撮影も伴っていて、ビジュアルとしての臨場感も添えられる。

聞き手の方はもれなく問いを熟考して下さっている。が、答えるこちらには即興力が試される。あらかじめ「これこれについてお話し頂けますか」と示してもらうこともあるが、それに対して細かいメモを取って臨んだりはしていない。私やセレノの場合は。

なぜ細かいメモを用意しないのか。言い訳がましく聞こえそうだが、準備した言葉に縛られそうな気がするからだ。実際、インタビュアーがメモを取る手元を見ていると、「あっ、こんな意外な言葉が飛び出した」と思う瞬間に走り書きされていることが多いように思う。

聞き手にとって予想外の方へ話題が転がったり、話し手にとって話すはずでもなかったことまで喋ってしまったり。そんな興奮のある瞬間がインタビューの肝なのだろう。まさにセッションだ。

たまに『徹子の部屋』や『サワコの朝』などに目を留めても、熱を帯びている時間とそうでない時間の差は伝わってくる。じわじわ熱を帯びていくケースも、乱高下しているようなケースもあって、それは両者のハーモニーだなあと感じられ、興味深い。

テレビ番組などは別として、事後にテープ起こしをしてくださる方の膨大なお手間には敬服。ああいう作業でも、慣れると早くなるものなのだろうか。これまでにまだたったの一回しか私には経験がない。学生時代の説話文学の研究会での討論のテープ起こし。一気に仕上げたいのに何度も眠くなって頓挫した思い出がある。

後日送られてきたテープ起こし原稿の校正も、書いた文章の校正とは一味違う工夫どころがあるように思う。口語独特の鮮度、臨場感、セッション時の熱のようなもの、それらをあんまり整理し過ぎても面白くない。それでも、足し削りを加えて整える必要のある箇所もあるにはある。

インタビューの何よりの醍醐味は、その機会によって、ああ、ずっとこういうことが言いたかった、こういうことを考えてたんだ、と悟らせてもらえるところだと思う。まるでどこかからコロンと降ってきたかの様に、ふと了解する。出くわす。僥倖のようだと言えば大げさに過ぎるだろうか。

(茉歩)

写真は箱根で出会った珍しいポーズの二宮金次郎さん。数々のインタビュアーやカメラマンさん、また読者の方への感謝にかえて。