珍しい寒波で、一月は京都でも雪に見舞われる日が幾日かあった。私が住んでいるのは京都でも東の端、起床時にカーテンを開けなくても明るさの色が違うので積雪に気づく。雪を確かめたくて窓に近づくまでの数秒が好きだ。
一月中旬の大寒波の日には神戸方面で本番だったのに、駅まで行こうにもタクシーが無い。全車運休と告げられ、雪対応の靴に履き替えてヨチヨチと歩いた。雪道はふだん気づかない路面の傾斜を実感させてくれる。北海道遠征をなつかしく思い出したりした。やっとのことで乗り込んだJRで西へと進むと、雪はしだいに小降りとなり、尼崎ではピタリと止んで、三ノ宮からはもう青空が見えていた。同じ関西なのに、といささかびっくり。
下旬に入り、信州は上田でのレジデンスがスタート。どんなに寒いんだろうとあれこれ防寒対策をしたのだが、意外にもそれほど厳しく感じない。温度は明らかに京都より低いはずなのに、これくらいなら大丈夫という体感。寒さの質によるのだろう。言わば数字に反映されないテクスチャーのようなもの。京都の寒さは骨や内臓が冷える感じ。冷えが身体の内部に浸潤する感じだ。両足裏、仙骨裏、胸椎4番裏に合計4枚カイロを貼ることもある。
大学の頃は上賀茂に下宿していて、付近は京漬物の素材であるすぐきの畑が広がっていた。暖冬だとすぐきの味が落ちると農家の方が嘆くのを聞いたことがあった。茶席に出される和菓子の味にも響くらしい。きちんと冷え込まなければ保証されない味。身体の内部に浸潤してくる冷えは食材そのものにも作用するようだ。
上田のレジデンスは来月18.19に控えている公演のため。結成してからいつしか20年である。旗揚げの時には10年先のことなど思いも寄らず、ましてや20年先など絵空事のような感覚で、ぼんやり遠い他所の話だった。続けていくのは大変だと感じたことはそれなりにあったようにも思うが、本気で解散や休止という二文字を思い浮かべたことは一度も無い。はず。何が何でも活動続行しなければと気負い込んでいなかった緩さが幸いしたのかもしれない。
その時々に親身にお付き合いくださった方々に頭が下がる想いを新たにするとともに、どんな時も、どんな向かい風にも、「これくらいのことはそらあるやろ」とそらっとぼけて来てくれた阿比留に小声でありがとうと言いたくなる。
新作タイトルは「とこしえに」。
「とわ」なら永遠、「とこしえ」だと永久。永遠も永久も、望むものでも無ければ誓うものでもないと思う。雪は積もりたいとして降るのではない。積雪は結果なのだ。
(茉歩)
写真は春待ちの梅。祇園の白川べりで撮りました。