京都は今日は五山の送り火。観光客の流入を感じる夕刻です。今年、わたくしは近親者を亡くしました。忘れられない夏、初盆です。鎮魂になるかどうかはともかく、供養のつもりで記しました。
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赤松の林のあちらこちらにひまわりが群生している。その、夜のひまわりの傍を抜けて、車は深夜の病院に向かった。宿からは約15分の行程。
昼間に比べて随分と人少なではあるけれど、待合室やエレベーター前のソファには、訳のありそうなご家族が何組か待機しておられる。こんな時間に小さい子まで起こされて連れてこられているんだ、と胸がざわついた。
目的の個室はナースセンターの斜め前で、その場にいながらにして看護師さんのどなたかを呼べるほどの至近距離。ドラマのシーンなどでよく見る血圧や心拍数を示すモニターの音がよく響いている。大きめの窓から見えるのはガリバーという店の看板。
亡き骸を引き取ったのは、もう次の朝だった。本人のこだわった、自然死というかたち。それは意識が確かだったから果たされたわけだが、昏睡状態が続いていたなら、もしかしたら親族の気持ちのほしいままに、当人の望まない延命処置を主治医に願い出てしまったかも知れない。それを怖いことだと思った。
納棺、通夜、告別式、斎場での火葬と進行して行く中で、そのそれぞれにおいて、専門の職掌を淡々と粛々と遂行する人たちの仕事ぶりに触れた。今回コーディネートをお願いしたホールだからそうなのか、随分システマティックに次第が組まれ、かといってけして事務的に陥らない配慮も感じるありがたさ。
送り人の細やかな技で故人の表情は生前の面影さながらに蘇り、帷子ではなく洋装の装束を選ばせてもらったことで、柩の中で目を閉じているにもかかわらず軽やかでモダンな別れの姿となった。
ありがちなことだと思うが、こんな折でもなければ滅多に会う機会もない縁者たちでお膳を囲み、めいめいの近況と故人の思い出が交互に繰り返される。涙も笑いも両方ある。
自分の身体に感覚として強く刻みつけられたのは、納棺式の際に触れた手の指の、冷たさと共存している柔らかさ。そして、納骨式の際に壺に納めるために砕かれていく骨の、ただただ乾いた音。自分たちで噛み砕いているのではないかと錯覚するほど耳に近いサクサクサクという響き。
もう身体は無くて、でも故人が長きに渡って思惟したことの全ては失われないはずだとふと悟る。誰しもがたどるはずのたった一人の道行きの中、人は生前の思惟を超えるものを想うのだろうか。
(茉歩)
写真は、上野の不忍池で撮った蓮の花。