2017年1月9日(月・祝)月齢10.8 / 成人式おめでとう

今朝のテレビ。どこの国の裃なのだろうというほど派手な出で立ちの男子二人。ヘアメークもバッチリで、イカツイ外見と裏腹にどこかあどけなさの残るこの新成人たちへの街頭インタビューに、しばし釘付けになった。聞くと、二人ともが二児の父、そして一児の父らしく、「怒れることは?」と尋ねられて、「ゆとりだろ?ゆるいだろ?」みたいに言われることだと答えている。夢は家を建てること。「ゆとり、家建てます」と張りのある声。家庭内でのお父さんぶりを微笑ましく想像してしまった。仕事でよく訪れる北九州市でのインタビューだったこともあり、大好きな小倉弁ネイティヴを新年から聞けた喜びもある。

確かに世代論だけで人を判断するのはナンセンス。私が近辺で触れることのできる二十歳は殆どが学生たちだが、それとて実にさまざま。

今日はその年頃の学生たちと授業の一環で鑑賞実習にでかける。ダンスボックス新長田。出演する側にも鑑賞する側にも新成人がいるかも知れない。

自分自身の成人式のこともふと思い起こしてみた。さして特筆すべきことの無い大学生。私は早生まれで、三回生の時に二十歳になった。将来は、古典文学の研究をして行こうとボンヤリと思い描いていた四国出身の国文専攻生だった。父は写真店を経営していたので、赤や緑の貸し衣裳の振袖を調達して来て私を成人式撮影の見本のように仕立てたりしたものである。その父も、また母ももうこの世にはおらず、我が子の成人式を祝うということも私の身の上には無い。

どういう距離感を持てば良いのか少し迷うような、二十歳とはそんなデリケートな存在だ。妹や弟がいないので、年若の人の成長を家族として体験していないことも助けているかも知れない。

ともかく、今日成人式を迎える人たちを晴れやかにお祝いしたいと思う。責任という言葉の発揮する威力がこれからは少し違ってくるだろう。それは楽しいことだけではないはず。しかし厄介なことでも決してないのだ。

(茉歩)

写真は名も知らぬ花。曼殊院道で見つけました。