2016年4月29日(金)月齢21.7 / 水月移写

九州新幹線が2週間ぶりに開通したとの安堵を誘うニュースに触れた。その一方で、テレビ画面の上部にはいまだ町の名前と震度が映し出される。その度に、慣れていかないでおこうと身構える。熊本地震の後、知人の劇場関係者のお一人に連絡を取っているが、お返事をいただけていない。ご無事を祈るばかりである。

この2週間、間断なく地震のことを考え、心配し、そして、仕事をし、本番を踏んだ。生き、暮らし、食べ、踊り、そのどの瞬間にも、現地の状況を思い起こすことが並存した。

阪神大震災が起こった日、私は高校へ出勤するために支度して、最寄りのJR駅で、電光掲示が全て消えているのを無言で見上げた。まだそれほど携帯電話が普及しておらず、公衆電話にならぶ人たちの列は長く延び続けた。学校は休みになった。
芦屋方面から出勤しておられた先生のお宅が倒壊。数ヶ月お会いすることはなかった。後日、予定していた本番の照明合わせのため大阪よりも西に電車で移動した時、尼崎以西に突如ブルーシートが増えるのに驚愕した。梅田に戻ってみると、街の活気は私の見知っているものだった。

東北大震災が起こった日、私はリハーサルの前に携帯電話の機種変更をしようとしていた。その時カウンターにいた客の全員の携帯がつながらないことを店員がいぶかしがった次の瞬間、名状しがたい光景がテレビ画面に映し出されるのを無言で見上げた。ひと月を待たず、神戸ダンスボックスのライブエイドに出て踊り、ふた月後には、JCDNや魁文舎のコーディネートのプロジェクトで宮古に行き、5つの避難所を回った。まだ京都新聞の『現代のことば』を担当していた時期で、担当の最後のコラムは復興支援について書き、それとは別個に宮古体験をまとめて提出もした。

宮古である避難所に行った時、各地からの慰問者への対応に少々疲弊の空気が漂っていたのを感じた。無理もなかろうと想像した。風穴というツボがある。胸椎の4番を右回りにゆっくり撫でると、撫でられた側のひとの身体が緩むというひとつのやり方。対話もなく、あるおばあさんの風穴を撫で続けて、立ち去ろうとした瞬間、そのおばあさんが私を呼び止めて、ご自宅が半壊した時の庭の瓦礫をネコという一輪車で「7回も運んだ」ということを、とめどなく繰り返しておっしゃった。止まらないのではないかと思うほどその言葉は長く続いた。この言葉は、身体から外へ出なけらばならない言葉だったのだと直感した。私はうなづくしかすべもなく、おばあさんの前に座ってその言葉を聞いた。

おそらく、いや、間違いなく今回も、身体から外へ、出ることができるまでその機会を待ち続ける言葉がある。はずである。まだ本当には何をすればよいのか、戸惑いの中にいる。考えるというよりも、少し無愛想に耳を傾けるべき音を探し、感じるように努めさせて頂きたいと思う。

(茉歩)